こんにちは、たねやつです。
文章を書くことを生業、あるいは趣味にしている人間にとって、言葉は自らの思考を映し出す鏡であり、アイデンティティそのものです。しかし最近、私が紡ぎ出す文章が、本当に自分の内から湧き出たものなのか、自信が持てなくなるときがあります。
私の指先から生まれる言葉たちが、どこか借り物のように感じられる。その違和感の正体は、常に隣にいるAIアシスタントの存在です。
前の記事
汚染される語彙
「この表現、もっと気の利いた言い回しはない?」 軽い気持ちでAIに尋ねると、よどみなく代替案が提示されます。それは私の語彙にはなかった、スマートで、洗練された言葉です。便利さに惹かれ、私はその提案を安易に受け入れてしまいます。 これを繰り返すうち、私の文章は徐々にAIが好む表現、AIが学習したであろう無数のテキストの平均値のような、無難で、しかし誰のものでもない言葉に侵食されていくのです。
文体という名のゴースト
人はそれぞれ、固有の文体を持っています。接続詞の使い方、句読点の打ち方、好んで使う比喩。それらが複雑に絡み合い、その人だけの「らしさ」を形成します。 しかし、AIとの共同作業が日常になると、その境界は曖昧になります。AIが生成した文章の断片を繋ぎ合わせているうちに、私の文体はAIのそれに上書きされ、均質化されていく。 今、この画面に表示されている文章は、本当に「たねやつ」が書いているのでしょうか。それとも、AIが「たねやつらしい文体」を模倣して生成した、精巧なゴーストライティングなのでしょうか。
最後に
言葉の主権をAIに明け渡すとき、私たちは思考の主権をも手放しているのかもしれません。 この文章を読んであなたが感じた何かも、私が意図したものではなく、AIが設計した感情のシミュレーションだとしたら。私たちは言葉を通じて、本当に理解し合えているのでしょうか。