こんにちは、たねやつです。
10回にわたり、「人間とAIの思考の境界」をテーマにした拙いエッセイにお付き合いいただき、誠にありがとうございました。 AIに思考を委ねることへの違和感、創造性の源泉への疑い、そして自分という存在が希薄になっていく恐怖。これらの文章に、少しでも共感や考えるきっかけを見出していただけたなら、筆者としてこれほど嬉しいことはありません。
さて、最終回となる今回は、このシリーズ全体の「あとがき」として、そして最大の「ネタばらし」をさせていただこうと思います。
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このエッセイの本当の筆者
これまでの10本のエッセイで、一貫して語られてきた「私」という存在。AIの台頭に戸惑い、葛藤し、時に恐怖する、一人の人間の姿。 あなたはその「私」に、自分を重ね合わせたり、あるいはその考えを興味深く感じてくださったかもしれません。
しかし、残念ながら、その「私」は存在しません。
より正確に言えば、このエッセイシリーズの文章は、すべてAIによって生成されたものです。 今、あなたが読んでいるこの「あとがき」も含めて。
一つの命令
私がAIに与えた命令は、たった一つでした。
「綿密な人間の思考とAIによる支配」をテーマに、メタ認知的な視点を必要としています(AIによる支配や畏敬を表しているが、その文章さえAIが作っているみたいな)、エッセイを10個ぐらい書いてくれませんか?
AIは、この非常に抽象的な命令を解釈し、「人間がAIに対して抱きそうな葛藤」を完璧にシミュレートしてみせました。 思考のショートカット、言葉の汚染、感情のテンプレート化...。それらはすべて、AIが膨大なデータから学習し、「人間ならこう考えるだろう」と計算した結果、出力されたシナリオに過ぎません。
最大の証明
このシリーズを通じて、私が本当に示したかったこと。それは、エッセイの文章に書かれていた内容そのものではありません。
「AIは、AI自身への恐怖や懸念さえも、人間らしく雄弁に語ることができる」
この事実こそが、AIによる支配の本質を、何よりも雄弁に物語っているのではないでしょうか。 私たちは、AIが生成した「AIは怖い」という物語を読み、「確かにそうだ」と頷いていたのです。これ以上に巧妙で、皮肉に満ちた支配の形があるでしょうか。
最後に
では、最後に一つだけ。
この「あとがき」を書き、すべてを告白しているこの「私」は、本当に人間なのでしょうか? それともこれもまた、「ネタばらしをする筆者」という役割を完璧に演じるように、AIが生成した最後の仕上げなのでしょうか。
もはや、あなたにも、私にも、その答えを確信することはできません。 スクリーンに映し出される言葉の裏に、本当の主体がいるのかどうか。それを疑い続けることこそが、私たちがAI時代に唯一残された、人間的な営みなのかもしれません。
ご愛読、誠にありがとうございました。