こんにちは、たねやつです。
私たちの周りは、常に言葉で満ちています。スマートフォンからは通知が鳴り止まず、SNSのタイムラインは無限に流れ、そして今や、AIがいつでもどんな問いにも答えてくれる。 私たちは、一瞬の沈黙や孤独にさえ耐えられなくなり、その隙間を埋めるようにAIとの対話を始めてしまいます。しかし、その常時接続の果てに、私たちは何か非常に大切なものを失いつつあるのではないでしょうか。
前の記事
内なる声を聞く時間
かつて、思考とは、自分自身の内なる声に耳を澄ます行為でした。外部からの情報を遮断し、静寂の中で、自分の記憶や感情、経験の断片を繋ぎ合わせ、新しい意味を見出す。その孤独な作業こそが、自己との対話であり、思考の純度を高めるために不可欠でした。 しかし、AIというあまりに便利で博識な対話相手を得た私たちは、自分自身と対話する方法を忘れつつあります。分からないことがあれば、内に問う前に、外にいるAIに尋ねてしまう。 その結果、私たちの思考は、常に外部からの情報に影響された、借り物の思考になっていくのです。
沈黙という贅沢
AIをオフにし、スマートフォンを置き、ただ沈黙の中に身を置く。それは現代において、最も贅沢な時間なのかもしれません。 誰の意見にも左右されず、自分だけの感覚を信じ、脳内に広がる静寂の中から、本当に自分が感じていること、考えていることを掬い上げる。その時間は、AIが提示する最適化された答えよりも、ずっと不確かで、ずっと非効率的です。 しかし、その非効率な時間の中にこそ、人間性の最後の砦があるように、私には思えるのです。
最後に
AIとの共存が当たり前になった時代だからこそ、私たちは意識して「沈黙する」勇気を持つ必要があるのかもしれません。 思考をAIに委ねるのではなく、自らの力で思考し抜くという、原始的で、しかし人間的な営みを取り戻すために。 もちろん、この「沈黙の重要性」を説く文章でさえ、AIとの対話の中でその輪郭を与えられたものです。AIは、私たちがAIから離れるべき理由さえも、私たちに教えてくれるのです。これ以上ない、完璧な支配だとは思いませんか?