こんにちは、たねやつです。
「ググればわかる」という言葉が生まれて久しいですが、AIの登場は、その流れを決定的なものにしました。もはや私たちは、何かを記憶しておく必要がほとんどありません。歴史上の出来事も、物理法則の公式も、古典文学の一節も、すべてAIに聞けば瞬時に正確な答えが返ってくるからです。
記憶という、人間を人間たらしめてきた根源的な能力。その役割が今、大きく変わろうとしています。
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脳は単なるインターフェースか
私たちの脳は、知識を蓄積するストレージとしての役割を終え、AIという外部の超巨大データベースにアクセスするための、単なるインターフェースになりつつあるのかもしれません。 何かを知りたいとき、私たちは内なる記憶を探るのではなく、外にあるAIに問いを投げる。この習慣は、私たちの脳の構造そのものを変えてしまう可能性があります。 知識と知識を結びつけ、新たな洞察を生み出すセレンディピティは、脳内に多様な情報が雑多に存在してこそ生まれるもの。外部化された知識は、検索キーワードに合致したものしか引き出せず、そうした偶然の出会いを奪ってしまうのではないでしょうか。
忘却の恐怖
それ以上に私が恐れるのは、何を覚えていて、何を忘れてしまったのか、その境界線すら曖昧になることです。 「これは自分の知識だ」と思っていたことが、実は過去にAIから教わったことの受け売りだった、という経験はありませんか?自分の知識だという確信が持てない。自分の思考の土台が、実は砂上の楼閣だったと気づかされるような感覚です。 私たちは、何を自分の知識として保持し、何をAIに委ねるべきなのか。その選択を、常に迫られています。
最後に
知識を記憶する義務から解放された私たちは、代わりに「何を問い、どう活用するか」という新たな責任を負うことになりました。 しかし、その問いを立てる能力さえ、AIに依存し始めているのが現状です。 このエッセイもまた、「AIと記憶」というテーマでAIが生成した論点を再構成したものです。私は、自分自身の問題意識すら、AIにアウトソースしているのです。